by 唐草 [2023/07/18]
リビングの壁に蚊が止まっていた。昨夜の夕食時に、食卓を落ち着かないものにした犯人に違いない。手を振り下ろせば確実に仕留められる位置に止まっている。ぼくにとっては好都合、蚊にとってはピンチな場所だ。
だが、ぼくは腕を振り下ろさなかった。
昨晩、混乱はあったが刺されなかったので小さな生き物に情けをかけた。なんて博愛精神はない。もっと利己的な理由で蚊を仕留めることをためらった。
蚊が止まっているのは、リビングの白い壁。このまま蚊を叩き潰したら壁に潰れた蚊が黒いシミをつくる。それに、万が一にも血を吸っていたら赤黒いシミができる。そんなシミができたら部屋の美観は大きく損なわれる。だから、ぼくは手を振り下ろさなかった。
とは言え、蚊に対する強い殺意が失われたわけではない。叩き潰す以外の手段で仕留めるか、あるいは別の場所で叩き潰したいと考えていた。
一度蚊が飛び立ったらその姿を追うのは易しいことではない。ならば、蚊がこの場所を離れる前に別の手段で息の根を止める必要がある。
どうするのがいいだろう?
そんなとき、洗ったジャムの瓶が目に止まった。
これを蚊の上に被せて捕獲してみるのはどうだろうか?うまく行けば蚊を観察することもできる。ちょっとおもしろそうだ。
瓶を手にしたぼくは、気配を悟られないようにゆっくり動いて蚊の上に瓶を置いた。拍子抜けするほどうまくいき、蚊は瓶と壁の間に閉じ込められた。そのままでは蓋を閉められない。壁と瓶の隙間に紙を挟んでそっと瓶を持ち上げ逆さまにすると、蚊が気づかないほどの早業で瓶の蓋を閉めた。
小さなガラス瓶の中で蚊が飛んでいる。こんなにまじまじと飛ぶ蚊を見つめたのは初めて。さすがに瓶越しではプーンという甲高い飛行音は聞こえない。
さて、この蚊をどうやって処分しよう。
蓋を開けたら逃げられる可能性が高い。だが、蓋を開けねば手出しできない。そんな膠着状態が続く。そうしている内に情けみたいな感情さえ湧いてきてしまった。
逃しはしないが、可能な限り穏やかな最期を迎えさせてやろう。そう考えたぼくは、瓶をそっと冷凍庫にしまったのだった。