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激しい水害の記憶

by 唐草 [2023/07/03]



 毎年激しい水害が起きている。先週末から九州に線上降雨帯が発生して橋が落ちるなど大きな被害が出ている。茶色い濁流が護岸を削っていく視聴者映像は、台風の襲来を思わせる。
 ぼくには、10年前より水害が増えている印象がある。数が増えているだけでなく、被害規模も拡大しているように思える。被災者が口を揃えて「こんな経験、生まれて初めて」と語る姿が浮かぶ。
 水害の悪化は温暖化の影響だろうか?それとも自然を無視した強引な開発のツケだろうか?
 とは言え、水害の規模と頻度がともに悪化したというのは、ぼくの印象でしかない。どのぐらい変化したのかを理解するには、統計データを確認する必要がある。しかし、客観的データを持ち出す必要がないほどに水害が悪化している印象がある。
 歴史を紐解けば、日本人は常に水害と戦い続けている。なにも古い話ではない。この50年間にも台風や豪雨が人間に牙を向いてきた。30年ぐらい前まで東京の下町は、頻繁に水浸しになっていた。それをさまざまな努力で乗り越えてきた。地下貯水池などがいい例だ。
 記録上では水害は減少しているようだ。しかし、そんな印象はまったくない。この事実と感覚の相違はどこから生まれるのだろう? 
 近年の水害は、映像としてぼくの脳裏に強く刻まれている。実際には目にしたことなんてないにもないのにだ。どうしてだろう?
 ひょっとしてスマホのせいではないだろうか?
 10年ぐらい前からスマホの普及が進み、誰もが高画質な映像を簡単に撮影できるようになった。そんな技術革命が、リアルアイムに災害を記録できる時代を生み出した。
 護岸を削りながら川からあふれる土色の濁流なんて実際には見たことないけれど、メディアを通して何度も目にしている。当事者にしか撮影できない映像には臨場感と緊迫感に満ちている。遅れて到着するテレビ局には撮れない映像だ。
 被災者目線の生々しい映像の共有が、先の時代にはあり得なかった被災体験の共有とでも呼ぶべき強い印象をぼくらに与えているのではないだろうか。この強い印象が、水害が拡大したという印象を形作る一端なのかもしれない。