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すごく賢かったら

by 唐草 [2023/03/26]



 文学史に名を連ねる文豪たちの多くは、幼い頃からその片鱗を見せることが多かったと言われている。
 三島由紀夫が小学生の頃に書いた文章を目にしたことがあるが、とても小学生が書いたとは信じられなかった。小学生らしからぬ小難しい言葉遣いをしているだけではない。物事への観察眼の鋭さとそれを表現するために選ぶ言葉のセンスが、大人どころか多くの文筆家を超えているように思えた。文章の中身は忘れたが、美しい日本語を読んだという記憶は鮮明に残っている。
 単に多くの文章に触れるだけでは、あのように端正で美しい言葉を紡ぐことはできない。ぼくが英才教育を受けても絶対に到達できない領域ないのは確かだ。
 文章を目にして「これが天才か」と驚くと同時に、異形のものを見たような気持ち悪さを覚えた。率直に言えば、嫌な小学生だと心の底から思ったのだ。なんと醜い嫉妬だろう。
 名を残した文豪たちが偉大な才能を発揮したことを否定するつもりはない。とは言え、先人たちの残した言葉は古いので、現代人が読むと大仰な物言いに感じてしまうことも少なくない。
 最たる例は古典文学だろう。今では読むのも難儀する源氏物語だって、書かれた当時は話し言葉を多用した最新でカジュアルなものとして受け止められていたらしい。今で言えば、流行作家の最新刊ぐらいの存在だったのかもしれない。
 それを考えると三島少年が、昭和ではなくコロナ禍を生きた令和の小学生だったらどんな文章を書いたかに興味は尽きない。SNSでバズるような今の言葉を選ぶのだろうか?それとも今日まで続く文学史を土台とした重厚な言葉を選んだのだろうか?ぼくは三島由紀夫は好きではないが、そこだけは気になる。
 最後にありえない仮説を考えてみたい。
 ぼくが何らかの要因で急激に賢くなったらここの文章はどんな風に変わるのだろう?ぼくが訓練で賢くなるとは思えないので、アルジャーノンよろしく手術や投薬、電気ショックなんかに頼ることになるだろう。
 十分に賢い自分は、何をテーマに選んで、それをどんな言葉で綴るのだろう?とは言え、そんなに賢かったら今の自分と同一視できそうにない。