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異文化道徳への理解

by 唐草 [2021/11/22]



 今や日本にいながらにして、いや自室に籠もったままでも、海外の文化を簡単に見聞きできる。文化を知る機会は、海外ドラマかもしれないし、ゲームの季節イベントかもしれない。数年前までセントパトリックデーなんて聞いたこともなかった。今ならゲームのおかげで「緑色のシャムロックのやつだ」と理解できる。
 このようにメディアを通じて海外文化への理解は進んでいる。とは言え、実際に参加したことはない。あくまで言葉と数枚の写真や短い映像を知っているだけ。言うなれば、使ったことのない言葉の辞書的な意味を知っているだけようなもの。空気を肌で感じた感覚的な理解からは程遠い。
 先日あるゲームのオチを知ったとき「文化を知っていることと理解していることの間には埋めがたい隔たりがあるのでは?」という疑問が湧いた。
 そのゲームのオチは「洗礼を受け入れた自分 Vs. 洗礼を拒んだ自分」という自分対決だった。洗礼を受け入れた方は超人的なパワーに目覚め世界を変えていく。一方、洗礼を拒んだ方は過去の罪の意識に苛まれ酒に溺れていく(主人公は洗礼を拒んだ方)。ネタバレなのでゲーム名は伏せておこう。
 物語中盤で「あえて分かりにくく作られた導入部の伏線」に気づいたけれど、それでもなおビックリするような見事なオチだった。平行世界を扱ったゲームのオチとして自分対決はいい落とし所だったし、満足できる悲しい結末だった。
 それでも、ひとつだけ疑問が残った。洗礼を運命の分岐点にすることの道徳的な受け止め方である。ぼくはキリスト教でもなく、キリスト教文化圏に暮らしているわけでもない。キリスト教において洗礼が、神聖で特別視されていることは知っている。でもその知識だけでは、このオチがショッキングなものなのか、あるいは逆に納得できるものなのかが判断できない。もしかしたら、タブーに挑んだシナリオなのかもしれない。
 ネット越しに知識が増えるだけでは、こういう教養と呼ぶべき感覚の根っこを理解することはできないんだなと痛感した。キリスト教が身近な欧米人が、このオチをどう捉えたのかを聞いてみたい。