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古典の境界線

by 唐草 [2022/08/06]



 古典文学と言ったら、日本では江戸時代以前の作品を指す。漱石や鴎外は原文を現代語感覚で読めるが、江戸後期の秋成や馬琴だと言葉の違いに躓くことになる。
 100年以上前の作品なので読みにくいのも仕方ない。明治以降文章のあり方が変わったことも大きい。だから、江戸と明治の間に古典と近代の壁があることは納得できる。
 歴史の短い世界ではどこからを古典とするかが定まっていないことが多い。例えばマンガ。今は手塚治虫登場前後で区分されている、その区分も古いように思える。
 マンガ以上に区分が定まっていないのがゲーム。レトロゲームという言葉はあるが、明確な定義は存在しない。ファミコン世代の8bit機をレトロとする懐古派もいれば、3Dが台頭し始めるスーパーファミコンとプレステ/サターンの切り替わりを基準とする技術派もいる。「20年も経てばみな古い」と今を基準に考える進歩派もいる。進歩派にしてみれば、PS2はすでにレトロゲームだ。
 ぼくは技術重視なのでスーパーファミコンと初代プレステの間にレトロとモダンの境界があると考えていた。ところが、その判断が揺らぐ事実に直面している。
 先日からTES(The Elder Scroll)の世界を深く理解するためにTES4『Oblivion』で遊んでいる。『Oblivion』は2006年発売のPS3/Xbox360世代なので、どの基準でもレトロゲームには区分されない。
 実際にプレーしてみると古臭さに驚かされる。3Dがシンプルなのは仕方ないにしても、モーションのチープさとUIの不親切さにうんざりしてしまう。2008年に同じ会社が発売した『Fallout 3』とは雲泥の差。古典文学を読むときと同じように苦戦しながらゲームを進めている。
 オープンワールドが初めて実現した2006年。まだ3D空間と2DのUIの連携は不十分だった。これならスーパーファミコンのほうが遊びやすい。
 ゲームにおけるレトロとモダンの境界は、3Dゲームの成熟が進んだPS3とPS4の間に設定してもいいのかもしれない。