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朝顔の未来

by 唐草 [2022/07/11]



 昨日は、参院選の投票のために近所の小学校へ行った。暑さを避けるために18時過ぎに投票へ向かったのだが、多くの人が同じことを考えていたようだ。少し日の傾いた小学校は、人々の影が交差していた。
 皆、吸い込まれるように投票所のある体育館へと向かう。体育館をよそに校庭を眺めるのはぼくぐらいだった。
 校舎はいかにも7月という趣に包まれていた。プラスチックの四角い鉢に植えられた朝顔がズラッと並んでいたのだ。1学期に朝顔を育てるのは、いつから続いているのだろう。ぼくも育てたし、ぼくの親世代も育てていたそうだ。変わらぬ理科の観察が、風物詩となっている。
 近づいて朝顔をよく見ると、観察日記の最後のページは悲劇的な内容になりそうだった。多くの鉢で葉が茶色く枯れていた。ここのところの暑さにやられていたところに土日がきてしまったのがマズかったのだろう。まったく水をまいてもらえない過酷な週末になってしまったことが、とどめを刺したようだ。
 選挙会場の脇に並ぶ小学生の育てる枯れかけの朝顔を見て、この国の行く末を暗示しているとコラムを書けるだろう。比喩なんて都合のいいものを好き勝手に解釈すればいいだけなのだから。
 朝顔を悲観的に捉える人は、朝顔の隣に並ぶミニトマトの鉢をどう解釈するのだろう?
 ミニトマトの鉢は、葉が茂っていた過去を想像できないほどに枯れているものもあった。その一方で、赤く鮮やかで艷やかな実をいくつもつけているものもあった。一様に枯れかけていた朝顔と比べるとまちまちの結果となっていた。観察しがいのある結果とも言える。この違いは、世話の違いによるものなのか、それとも生まれ持った苗の生命力の差なのだろうか?
 目の前のミニトマトの状況を「格差がどうのこうの」と悲劇的な比喩にも使えそうだし、「過酷な環境でもたくましい」と明るい未来を想像することもできる。皆さんには都合の良い解釈を選んでもらいたい。
 投票箱に紙切れを投げ込むより、小さな鉢にたっぷり水をまきたい。そんなことを思いながら小学校を後にした。