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置配

by 唐草 [2019/12/26]



 先月からAmazonの置配サービスを利用し始めた。利用前、配送のゴールを対面確認から一方的な放置に変えることをサービスと呼んでいいのかは疑問だった。実際に使ってみたところ、その疑問はすぐに消え去った。
 食べ物からおもちゃまでありとあらゆるものを通販で購入するようになった現代社会において、運輸は欠くことのできない存在になってきた。ガスや水道が止まっても、電気とAmazonさえあれば生きていけるという人も増えてきているだろう。運輸が社会インフラどころかライフラインと呼ばれるのも時間の問題だろう。
 ぼくのライフスタイルも日を追うごとに通販への依存度を増している。対面販売で消費する額が、通販で消費する額に追い越されるのも時間の問題だろう。この大きな変化は、昼夜を問わずに自分の都合のいい時間に買い物ができて、自宅まで届けてくれるという利便性が後押ししていることに疑問の余地はない。顧客の一方的な都合だけで買い物が成立してしまうのだ。この甘美な利便性は、一度知ったら中毒のようにぼくらの心蝕んでいく。もう後戻りはできそうにない。
 ただ、通販の最後だけは人と人の接触が残っていた。それが荷物の受け渡しである。
 置配を利用するようになって初めて荷物の受け取りに大きなストレスを感じていたことに気がついた。時間指定をしているとは言え、2時間ぐらい振れ幅のある到着を待ち続けるのは苦痛だった。万が一、荷物を受け取り損ねると更に面倒な再配達となる。息を潜めじっとインターホンの音に耳を澄ましているのは、配達人と受取人が繰り広げるある種の戦いでもあった。その戦いには勝利はなく、互いに疲弊するだけでしかなかった。
 でも、置配がすべてを変えてくれた。
 もう、ベルの音を待つ必要もなければ、忍者のような配達人が残した不在通知を握りしめることもない。トイレにだってゆっくり入っていられる。自分がいないであろう時間に配達してもらうことだって可能になった。通販は、首尾一貫人と人が顔を合わせず済むシステマチックなものへと進化した。究極のワガママが具現化されたようである。
 今日も置配で荷物が届く予定だった。
 家の前に配送のトラックが止まった。きっと荷物の到着だろう。そう思った矢先、不意を突くようにドアベルがなった。なにかトラブルでもあったのか?
 嫌な予感を胸に抱きながら玄関を開けると、きまり悪そうに配達人がこう言った。
「すみません、これ置配でした」