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画家のランク

by 唐草 [2020/11/02]



 昨日は型番がそのまま製品名になっているプロダクトについて書いた。一言でまとめると「数字が大きい方が偉い」という話。
 世の中のすべての商品の名称が数字になったら世代とか性能は分かりやすくなる。でも、管理され尽くしたディストピアのような面白みのない世界になってしまう。食品売り場に並ぶ商品の名前が「556」とか「551」だったら潤滑油か豚まんか判別できず食欲もなくなる。
 すべてが4桁ぐらいの数字になったら、同じ数字の商品が山ほど存在して大混乱だろう。重複しないようにしたらバーコードの数字のように十数桁の長いものになってしまう。お使いで「495216687を買ってきて」と言われたら泣きたくもなる。
 幸いなことに多くの製品にはキャッチーな名称が付けられている。数字で市場に出ることになる商品だって、内部的には愛称のような開発コードで呼ばれていることも少なくない。
 macOSも10.6ぐらいまでは数字で区別していたが、「タイガー」や「マウンテンライオン」のようなネコ科の開発コードが付けられていた。その後、国立公園シリーズにコードが変わってからは、数字より公園名を全面に出すようになってきた。親しみのわく良い変更だと思うが、「モハベ」と「ヨセミテ」のどちらが新しいのかは判断できない。
 さて、昨日も文句の対象となったPCパーツメーカーのAMD。この会社の製品はRX5700のように数字の名前ばかりだが、発売前は開発コードで呼ばれている。最近の商品には、巨匠と呼ばれるに相応しい画家の名前が割り振られている。
 ぼくとしては、この開発コードがどうしても許せない。
 最近の開発コードは「ピカソ」、「ルノアール」、「セザンヌ」と変化してきた。
 PCパーツは世代が新しくなるごとに性能が良くなる。つまり「ピカソ」より「セザンヌ」の方が高性能。こう書くとなんだか画家を比べているようでなんだか気分が悪い。また、新しい製品ほど古い画家の名前になっているので、西洋美術史をかじっていると訳がわからなくなる。
 芸術にも優劣があるのは認めるが、数字で測れるものじゃない。性能を数値で示すPC関連に画家の名前は使わないでほしい。
 AMDの製品は好きなのだが、命名則にはぼくの感性を逆撫でするなにかがある。