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ロウとカオス

by 唐草 [2019/04/27]



 ゲームのシナリオってどんな構造になっているのがいいのだろう?1つの結末に向かって邁進するのがいいのだろうか?それとも結末は1つだが、経路がたくさんあるのがいいのだろうか?はたまた、何種類もの経路と結末が用意されているのがいいのだろうか?
 この問いに対して、ひとつだけの答を出すことはできないだろう。物語の動機や主人公の性格によってどんなシナリオが適切かは変わってくるだろうし、場合によってはゲームシステムにシナリオが左右される場合だってあるだろう。ただ、ぼくとしては王道をまっすぐ走るだけの選択肢のないゲームより、経路も結末も見えないようなゲームの方が好きである。王道を邁進するドラクエだって面白いと思う。でも、それは水戸黄門のような様式美の面白さであり、ワクワク感は少ない。グダグダなシナリオでも好き勝手に進められるスカイリムの方が、ゲームの世界にいる感じが楽しめる。結末が1つに決まったシナリオを楽しむのならゲームは映画に勝つのは難しい。逆に言うと、いくつもの結末を用意できることがゲーム最大の特徴ともいえるだろう。
 結末がいくつもあるマルチエンディングのゲームで遊んだとき、どんな結果がぼくを待っているのだろう。攻略情報を絶ってマルチエンディングであることすら知らずに遊ぶ1周目の選択こそ、もっとも素のぼくの選択肢に近い結末に至っていると言えるのかもしれない。
 派生分岐まで含めると10以上の結末がある『Witcher 3』。ぼくが至った最初の結末は、悪として描かれる圧政の帝国は滅びず、ヒロインであるシリは王位ではなく流浪を選んだ。血みどろ男爵も死んだし、トリスを引き留めなかった。帝政エンドというべき結末を迎えた。
 ぼくが初めてマルチエンディングを意識したゲームは、SFCの『タクティクスオウガ』だ。このゲームでは、口封じのために街をひとつ焼き払って国を守った。これが中学生だったぼくの選択であった。いわゆるロウエンドである。
 マルチエンディングのゲームでは、自由を求めて革命を起こすような結末と法による平等を求める結末が対比されることがある。上で挙げた2つのゲームともそうである。そのいずれでもぼくは、法を選んでいる。ぼくは、カオスとロウならロウを選ぶ人間なのである。
 やはり、これがぼくの素なのだろうか?それともゲームで遊んでいるから現実と違う選択をしているのだろうか?
 リアルのぼくは好き勝手に生きているつもりだ。でも、それは規則や法を都合よく使って実現しているような気がする。腕力では勝てないから、ルールを武器に戦う。それがぼくの選択なのかもしれない。